【30代なら知っておきたい】ビート、ヒッピー、カウンターカルチャーのアメリカ

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こんにちは、佐藤はちです。

カウンターカルチャーという言葉を最近しばしば聞く機会がありまして、
なんとなく言葉は聞いたことがありましたが、その中身というか本質というか、いったいそれは何かという理解はしていませんでした。

今回はカンターカルチャーとはなんぞや、というのを、さくっと5分以内で読める記事にまとめてみたいと思います。

ヒッピーという言葉も聞いたことがあるかと思いますが、カウンターカルチャーと非常に密接した関係にありますので、そのあたりも踏まえて記事にしていきます。

目次

カウンターカルチャーとは

まず、カウンターカルチャーは1960年代にアメリカで生まれた言葉です。

この言葉は反対運動をきっかけにして生まれました。
何に反対していたかというと、黒人差別とベトナム戦争への反戦運動がきっかけとなっていました。

反対運動、すなわちカウンターとうことから生まれた言葉とのことです。
ボクシングのカウンターパンチのように、社会の力を利用して、逆にすごいパワーを作る、というような由来になるとのことです。

ビート⇒ヒッピーの誕生

ヒッピーが生まれる前にビートという人々が先に現れました。

50年代がビート、60年代がヒッピーというように住み分けされているようなイメージかと思います。

ビートジェネレーションと呼ばれる人々は、実力主義の社会からのがれようと、政治、宗教、家族、結婚、高等教育など、あらゆる面に対し避難の声を上げ、毎日ひげを剃って、パキッとしたシャツを着て、定時に出勤する、そんな社会からは脱出するには、ドロップアウトするしかない!という精神のもと生まれてた人々です。ひげもじゃのスタイルで、今でいうニートのような感じに思えますね。

第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカは、景気がすごくよくなり、政府主導で資本は公共事業に投与されていきました。

消費欲求も高まっていて、戦後のアメリカでは新しい家、自家用車を2台以上所有する、冷蔵庫、食洗器、乾燥機、自動開閉のガレージを持つなど、ステータス思考の世の中になっていました。

資本主義のアメリカで、そんな豊かな生活を保つためには、社会の実力レースに勝たなくてはならず、そんな世の中に不安も持つ人間もちょこちょこでてきていて、現代でも見られる流れがこのころから見えていたみたいです。

ヒッピーの登場

1960年代に入り、アメリカとソ連は冷戦に入っていました。

アメリカ史のなかで、歴史的なケネディ大統領の死去もこの60年代に起こった出来事です。(1963年11月22日)

北ベトナム(ソ連側)、南ベトナム(アメリカ側)の争いである、ベトナム戦争が勃発しました。アメリカのことでは戦争に対しても若者は徴兵され、いったい誰のために戦っているのか、戦争をやめよう、という反戦デモがアメリカ中で起こっていました。

また、黒人差別についても取り上げられていた時代で、黒人牧師のマーティン・ルーサー・キングらが中心となり、黒人の地位向上を求める公民権運動も起こりました。

第二次世界大戦のときにもなかった、大衆の反戦運動は、社会変動が生まれ、大きなカウンター・パワーとなり文化やライフスタイルなどの広がっていった。ここからカウンターカルチャーとう言葉が浸透きたと言われています。

ビートが誕生した1953年
サンフランシスコに移って、ノースビーチと呼ばれる地区に住居を定めた。なのでビートは西海岸発祥の文化とうことになるかと思います。

ヒッピーは中流階級の出身で白人、両親は甘く、多額の小切手を渡すケースも多かったと言われています。お金がなくなると両親に手紙を送ってお金を振り込んでもらうことが多かったみたいです。

ヒッピーは1945年から1947年生まれが多く、大戦から帰ってきた兵士から生まれた子供を中心にできていました。

ロングヘア、ひげ、ピースサイン、しゃがむ、はだし、が彼らの基本的なスタイルです。無気力な感じで、政治や国際問題よりは、レコードやアーティスト、愛などに熱心な人々だったと言われています。

マリファナ、LSDを摂取して、クリエイティブになれる。そんな幻想にとらわれていた。

生活拠点はサンフランシスコのヘイト・アシュベリーと呼ばれる地区で、家賃が安く、入居がしやすい場所だったと言われています。
郵便局の仕分けや電話のオペレーターなど、パートタイムで働く人もいたようですが、最低限のお金があればよいという考えを持つ人が多く、ほとんどはギターを弾いたり、詩を書いたり、日光浴をしたり、なんとなく日々を過ごしてしまう人が多かったようです。

中には商才に恵まれた人々もいて、ヒッピーたちの文化を利用してお金を儲けていたヒッピー成金なる人もごくまれにいたようです。

夕方になるとオープンハウスと呼ばれる一軒家の家に集まり、みんなでマリファナを吸ってくつろぐとうのが彼らの主な生活スタイルだったようです。

ヒッピーの終わり

1969年にウッドストック・ミュージック・フェスティバルがあり、40万人以上のヒッピーが集まりました。これは音楽と愛とドラッグ、コミュニケーションを主としたテーマに掲げられたフェスで、ヒッピーが追い求めていたユートピアを実現しようとしたフェスでした。

これは大手メディアでも取り上げられ、そのからヒッピーは文化からトレンドのような位置づけになり、夏休みの学生などがヘイト・アシュベリーに集まるようになってきました。彼らのライフスタイルはもうかるビジネスとして、ソフトに商品化されたファッション産業などに吸収されていきました。

1971年にはヒッピーのトレードマークであるロングヘアーはもはや反抗のしるしではなく、サンフランシスコでは警察官も髪を伸ばしていました。

1973年にはオイルショックが起こり、右肩あがりのアメリカ経済にもインフレが起こり、それまでの豊かなアメリカとは違った局面を迎えます。この社会のゆとりが徐々にヒッピーは社会の全面から消え、田舎で民芸品を売り、マリファナを栽培したりしてひっそりと暮らすようになったと言われています。

ビートにまつわるキーワード

なんとなく耳にしたことのあるビート語もまとめてみました。

主にジャズプレイヤーの間での流行語や、ドラッグ中毒者のスラングを借りてきたんもので、今では慣用語になっているものも多いようです。

ボヘミアン


汚い恰好、ひげだらけ、学者崩れ、売れない作家、自画自賛する詩人、売れないダンサー、大衆向けのレストランとかにたむろしてた。

ウィークエンドビート


職業についてる。普通の生活をしているけど、土曜の夜ぐらいはビートのようにはめをはずした状態になってみたいと思う人たち。

ビート詩人


極端に反社会的で個人的な不平不満に心を苦しめている異端者たち。
アメリカで多くの人たちがビートに関心を持ったのは、彼らの行動力にひかれたからだろう。

チック

ビート女性の総称

ディグ

理解する、評価する、成功する、傾聴する、賛成するなどに用いられる

キャット

ビート男性の総量

ヒップスター

hipを実行するもの

スクエア

ヒップを理解できず、理解しようとしない人。順応主義者。軽蔑の対象

スウィング

強烈なジャズのリズムに酔うこと。

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この記事を書いた人

都内勤務のサラリーマン。さまざまな中央値がだいたい自分に当てはまる平均的な人生を送ってます。31.7歳を過ぎてから自分が興味を持ったモノ・コトについて調べていくうえで、大人といえる自分を作っていくブログです。

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